(2)日本の行った大東亜戦争は、侵略戦争ではなかった。

皆様方はご承知の事ばかりですので、概略を簡単にもうしあげます。それは、朝鮮との関

係と支那事変の原因や経過が大束亜戦争に行き着いたと言う事であります。 私の論拠は

朝鮮人、台湾人、アメリカ人が調べて書いたものを主として基礎にしました。引用は著書

 Mirror.for mericans'HELEN MERS.と黄 文雄、加瀬英明、朴泰赫、蒋介石等から。

15世紀から20世紀末までの500年間は白色人種・キリスト教徒が世界を侵略制覇し

た時代でした、その最後の50年足らずの一瞬の間に、世界の流れにストップを架けて、

世界の歴史を大転換させたのが日本の存在であり、大東亜戦争に帰着した日本のやった戦

争でした。私は戦争の肯定をしようとしているのではなく、結果的に永年貪り続けて来た

植民地の解放、見下して来た連中との人種差別が撒廃され、世界地図が書き替えられる変

革が齎らされたのは事実であります。西欧500年の繁栄・発展は非白人への支配と収奪

の上に築かれていたのが、ひっくりかえった事に目を向けない教育がなされて来ました。

連中は日本人が憎いのです。皆様の誰もが周知のことを思い出して下さい。

先ず朝鮮の事から、蒙昧で停滞、統治能力に欠け、近代化に目を向けようとしなかった朝

鮮は、定見が無くて右往左住するだけの状態に各国がつけこんで混乱していました。

朝鮮半島が安定している事が日本の安寧の基礎だから、その為に努力していた日本は、そ

れを脅かす大国の動きを排除するべく、韓国が独立を維持し清国やロシヤの手に落ちるの

を防ぐ為に日清戦争と日露戦争を戦いました。                  

 

1894年・明治27年7月26日、韓国駐在のアメリカ代表シルは次の様な報告をしました。

「日本は思いやりの態度で韓国に接していると思う。今度こそ、韓国を中国の束縛から解

放しようとしているようだ。韓国国民に平和と繁栄と文明開化をもたらすことによって、

力の弱い緯国を安定した独立国にしようとしている。こうした日本の動機は韓国の知識層

である官僚の多くが賛成している。アメリ力にも異論はないと思われる」(出典 Payson

 Treat.Japan and the United States,p.154,Boston;Houghton Mifflin Company, 1927.)

 

もう一つ引用します。此の本の著者Helen Mears 女史は昭和21年GHQ労働局諮問委員

として来日し、帰国後昭和23年に書き上げたが、日本での出版・翻訳は占領が終了する

まで許可されなかったのでした。これがアメリカ人の見解・本音だと考えましたので。 

 日本は韓国の独立という実にもっともな動機から、中国、そしてロシアと戦った・第2

次世界大戦後の日本は、自分達は何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが、日

本はとにかく当時の国際慣行を律儀に守り、それにうながされて行動したのだ。日本外務

省が韓国の「対外関係と対外問題」を「菅理統括」し、日本人の総督が韓国の首都で行政

権限を与えられていたのは総て、韓国政府と締結した条約にもとづくのである。

1907年韓国皇帝はハーグの第二回万国平和会議(当時の平和愛好国の会議)に抗議し

ようとしたが、皇帝の特使は発言の機会を与えられなかった。そして皇帝は退位に追い込

まれた。

1910年、日本が韓国を併合したのは、新皇帝が「請願」ピティションしたからだった。パー

ルハーバー以前は、日韓関係について語る歴史家は、日本は欧米列強から教わった国際関

係の規則を、実に細かいところまで几帳囲に守っていた、と言ってほめるのだ。

トリート教授によれば、日本は「一つ一つの手続きを外交的に正しく積み上げていた。そ

して――――宣言ではなく条約で、最終的な併合を達成したのである」。事実、列強の帝

国建設は殆どの場合、日本の韓国併合ほど「合法的」手続きを踏んでいなかった。

 

こうした公式記録を見るかぎり、なぜ日本が韓国国民を「奴隷にした」として非難される

のか理解できない。もし、奴隷にしたのなら、イギリスは共犯であり、アメリカは少なく

とも従犯である。日本の韓国での行動はすべて、イギリスの同盟国として「合法的」に行

われたことだ。国際関係の原則にのっとり、当詩の最善の行動基準に従って行われたこと

である。しかも、その原則は日本が作ったものではない。欧米列強、主にイギリスが作っ

た原則なのだ。(前掲 日本語版 258頁)

 

支那事変は100年前の明治33年、義和団事件、北清事変、北京条約で駐留が決められ

た8ケ国の軍隊の一つである日本軍(北支派遣軍、此れは御存じの通り邦人警護の為の軍

隊で侵略軍ではありません)の夜間演習を利用して、近くに駐屯していた蒋介石の兵舎と

演習中の日本軍の両方に対して、林豹の指揮する共産軍が銃撃して、戦争を起すように何

回も挑発したことで始まりました。極東軍事裁判で林豹が証言し、支那事変に関しては、

一人も戦争犯罪の責任を問われなかったのです。林豹は中国では敵と敵とを戦わした英雄

だと讃えられているのです。

日露戦争後に発展をし始めた日本の勢力の拡大を阻む目的で利害が一致していた米英は、

何回も纏まりかけた、蒋介石と日本との和平交渉が成立しないように妨害しました。華北

に出来かけた新国家の成立が、王精衛の狙撃事件で中断しました。兵器の供給だけではな

く、白人の操縦する蒋分石軍の飛行機と、日本軍は空中戦をしたことは、当時に報道され

たことを記憶しています。アメリ力は自国では配給制にしていた貴重な石油や屑鉄を日本

へ輸出し続けて支那事変・戦争を継続させようとしました。止めさせないようにしていま

した。蒋介石といくら平和交渉しても埒が開かず、無意味、背後の存在を排除しなくては

戦争は止められないと覚らされた所へ、ABCD包囲陣、経済封鎖が始まり、大東亜戦争

を始めなければならない所に追い込まれたのです。

 

 

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