(4)シベリヤ抑留の実際体験

シベリヤ抑留期間を大別して次の3段階に分けて考えます。

 第1期 移送開始から昭和21年初夏まで、環境不適応・自然淘汰、大量犠牲段階。

 第2期 第1期が終って昭和22年末から23年1月頃まで、友の会、民主運動、下剋

     上扇動の反軍闘争、労働至上主義の段階。

 第3期 第2期以降、反ファシスト委員会、思想教育、洗脳、戦犯、吊し上げ、革命の

     輸出、BK(抑留者が仲間を見張る警戒兵の役割をするワイエンナ・カンボーイ)

 

第1期 移送開始から昭和21年初夏まで、環境不適応・自然淘汰、大量犠牲段階。

ソ連は日本軍将兵には作業大隊、労働大隊と言うべきを集成大隊と偽称させて、(故意に

誤訳)その組織で日本へ帰るのだ、朝鮮方面の輸送手段が混んでいるので浦塩経由でダモ

イさせるのだと騙して移送しました。帰国させると言う口約束はシベリヤヘの移送を円滑

に行なう為の方便でした。日本兵は騙された、捕虜になったと気付いても、その現実を認

めようとはしませんでした。編した方も悪いのですが騙された方も、予想外の現実には目

を瞑って認めようとしなかったのは、児戯に等しいことでした。バイカル湖を日本海とし

たり、発電所の煙突を見て迎えの船だとするような話題が多々ありました。現実を正しく

認識して、冷静に対処しようとする姿勢には欠けていました。放心状態とも言える全くの

無気力でした。それが、最初の冬に多数の死者が発生した大きな原因の一つでした。

敗戦後も日本軍隊内務生活はその儘、欠点・悪慣習としか言えないことも、シベリヤの生

活に持ち込まれました、階級、年功による暴力特権、弱者迫害等が目的を失った軍隊の日

常に横行していました。敗戦直前に員数集めで大量に召集された無経験で、軍服も最少減

の兵器も持たない、そんな年配の新兵達もその被害者に加わりました。

昭和20年末から21年1月と2月にかけて、60年ぶりの寒波が襲来しました。私達の

収容地では、氷点下60度以下になり寒暖計の表示がなく壊れたのかと間違える程だった

のです。温暖化が云々される昨今と違って、その頃は寒かったのでした。

 

携行して来た食料のアンバランスや、粗悪な飲料水、劣悪な居住条件等々も原因だったの

でしょう。しかし、それ等はソ連の自国の囚人達や一般の住民とも同じ条件でした。とも

かく、シベリヤでの犠牲者の80%以上が此の期間内に発生したのです。 此れに関した

事例は沢山聞き慣れて居られることでしょう。誰でも此の種の話題には事欠きません。

 

第2期 第1期が終って昭和22年末から23年1月頃まで、友の会、民主運動、下剋上

扇動の反軍闘争、労働至上主義の段階。

極端な自然淘汰で大量の死人の発生と処理が済んで、体力的に比較的健康な者が生き残り

ました。収容所の政治部将校はその間に、寄せ集め集団の日本兵を一人一人面接して、多

くの情報や構成を熟知していました。グブピーの係官も同様に面接して、その個人情報を

記録保管しました。その書類は今でもモスクワのロシヤ歴史文書館にあります。

此の期間にはいるのと、日本新聞が配布されるようになるのとが殆ど同時でした。それに

は新聞配布を管理する組織・新聞友の会、後には単に友の会の事務所が収容所内に作られ

ました。多数の中からソ連に迎合する者・使えそうな人物を選んで、新聞配布と民主運動

をやらせました。ソ連軍には通常の軍隊組織に並行して政治部の組織があり、組織には必

ず一般部隊にも、共産党員の政治部員が居ます。共産党独裁の国家だから当然ですが、日

本人には経験した事がないのでなかなか理解し難いでしょう。

第2期以降で申しあげます事は総て、此の共産党員のコミッサールと言いました政治部員

がやらせた事なのです。友の会は勿論そうでした。友の会事務所に居た連中は、収容所の

衛門通過証を与えられて、朝な夕なにコミッサールを訪れ指示を受け、新聞の供給を受け

たりしていました。此の連中は軍隊組織を継承していた収容所の指揮下にははいらず、従

って作業にも出ないでブラブラしていました。三重の鉄条網で囲まれた収容所内に居住し

ていながら、出入りが自由と言う待遇は一種の治外法権を得ていた特権階級でした。友の

会の連中は刻みタバコの巻紙である新聞紙やタバコを餌に、人を集め演芸会、演芸団、運

動会、労働歌の指導等の民主運動と言う、民主グループ作りの活動を始めました。一方で

は暴力的な上官の悪ロを漁り、反軍闘争と称して下剋上を扇動して、民主グループの名で

部下から嫌悪されていた上官達の吊し上げ集会を始めました。一人を吊し上げれば後はど

んどん続きました。反対する者は反動分子で吊し上げの対象でした。民主主義即共産主義

を意味し共産主義の宣伝も開始しました。ソ連をソ同盟と呼ぶ者は自分がマルキストだと

宣伝しているのでした、これは内地に帰ってからもそうでした。テキストには「ソ同盟共

産党小史」「レーニン主義の諸問題」等と日本新聞の記事があり、此の本を貸与される者

は民主グループのメンバーに限られました。そして、敗戦前の職種によって、資本主義思

想者、反共主義者だと暴露して、こういうのが反動だとして吊し上げの対象にされました

。憲兵・警察・特務機関や情報関係・語学教育関係等の人達です。反動とされた者には、

確信を持って同調しない傍観者までありました。吊し上げの対象者が反軍色から政治色が

強くなって行きました。反軍闘争が鳴りを潜めると、収容所の巻返しがあったのか、労働

至上主義、生産第一、働け働けのノルマを挙げろに変わりました。

スタハーノフ運動と称して、生産実績を競わせましたので次第に給与や待遇が良くなり、

ルーブルの配分も行われるようになりました。生産向上は収容所の主組織、各中隊、各小

隊、各分隊対抗で競争したので、軍隊組織の秩序が保たれていたから生産向上が実現出来

たのでした。しかし、そうは考えなかったようです。

此の成果が友の会運動の成果だと判断したのでしょう。政治的に一歩進めようと、アクチ

プと言う民主グループの中から政治的積極分子を選び、タイシェット、チク、ハバロフス

ク、ナホトカで行っていた政治学校、民主学校と言う特別教育講習会へ各収容所から派遣

して教育し、卒業生を使って革命の輸出の予行演習をやらせる準備を整え始めました。

 

第3期 第2期以降、反ファシスト委員会、思想教育、洗脳、戦犯、吊し上げ、革命の輸

出、BK(抑留者が仲間を見張る警戒兵の役割をするワイエンナ・カンボーイ)までやらされた。

シベリヤに3年以上抑留された方々の場合には、全然何も喋らない人、聴く相手の様子を

見て迎合的に適当な応答だけで終わる人等があります。話したくない、聴かれたくない、

触れられたくない、話しても判らないと考えているからです。それは、民主運動、思想教

育、洗脳、吊し上げ、密告等の日本人同志の嫌な思い出したくない事についてなのです。

昭和23年1月に各収容所に派遣された特別教育を受けたアクチプは、革命の第一歩は先

ず破壊、その後で建設だと教えられた通りに、収容所の秩序の破壊を開始しました。

政治闘争が始まりました。吊し上げて糾弾し追放、懲罰を大衆集会で決議するのでした。

ターゲットになったのは政治部員の指示通り友の会とその幹部でした。昨日まで羽振りの

良かった特権者の路線や行動が誤りだったのだ。俺達は間違った方向へ指導された。自己

批判させろ、日常の行動はプチブルだからダラ幹だ、罷めさせろ、追放しろ、個人的なこ

とや私憤までが、大衆の前でぶちまけられる。言い訳は野次と怒号で消されてしまう。追

放が決議され、あとをどうする、どうなるのか。予定通りの動議がだされる。友の会を廃

止、解散すべしと。割れる様な拍手、拍手で何時の間にか決まっています。再び動議、選

挙をやれと、やはり拍手、拍手でそう決まると、何を選挙するのか提案が求められる。

その答えは、その頃の日本新聞に掲載されていた反ファシスト委員会を選出しようと言う

事になりました。こう言う行動をソ連全土の収容所で実行するようにとの示唆が、少し前

に日本新聞に出ていました。新聞は革命指導の為の機関誌の役割を理論通りに果たしてい

ました。そして、シベリヤ中の収容所で友の会が解散させられ、反ファシスト委員会組織

がつくられました。

選挙の決議に従って、何日か食堂に七名の候補者名が掲示されましたが候補者は全員が特

別教育受講者でした。形式的投票で全員が当選。やはりソ連では選挙は踏絵でした。

新組織が出来ても、生産組織は変えられなかった所が多かったようでした。仕事、生産は

技能や経験を無視出来ません。思想だけでは成果は挙がらないのです。生産成果を重視す

る収容所は、私達の居た所の様に通常生活を律する行政組織や生産組織にまでの破壊を認

めない例もありました。思想と生産との二重政権もありえたのです。

反ファシスト委員会が出来て、思想教育の締め付けは強化されました。アクチブを沢山決

めるようになりました。アクチブに選ばれると言うことは、ソ連の政治部員コミッサール

の役割をすることなのです。新聞輪読会をやらねばなりません、職場の休憩時間に、収容

所に帰って就寝前にも、少しでも時間が空けばその時に、日本新聞輪読会をやるのです。

こうなると、毎日が憂欝になります、輪読会は小学生の国語の時間を思い出して下さい、

先生役のアクチブも生徒役の方も面白くありません。毎日だから心理的にも正常ではなく

なります。そこへ、新聞の示唆で戦犯追求、反動分子追求が加わりました。密告の奨励で

した。ゼロサムゲーム同様、他人を密告で陥れて自分が助かろうとする者が何人も現れま

した。輪読会で居眠りを見付けて、革命に熱意が無い、此奴は反革命、反動分子だと吊し

上げ、挙げ句の果てには此奴を日本へ帰すなと動議が出されます。それだけは勘弁してく

れと、被告人は平身低頭土下座をして許しを乞うまでに行き着きます。他人を吊し上げる

事こそが自分が民主主義者であることの証明だと考える風潮が出てきたのです。

吊し上げが日常茶飯事になりました。そうなると職場集会での出来事を上級機関に報告す

るかどうかは、アクチブの判断でした。急拵えの組織でしたから報告するのを忘れてしま

えばそれまででした。そんな時にデモコーラスが流行って来ました。デモコーラスは反動

分子を真ん中に立たせて、大勢が肩を組んで、その周りをワルシャワの労働歌と言うのを

唄いながら、上体を前後に反復させてぐるぐる廻るのです。此れは大変疲れました。仕事

を平常通りやりこなして、なお且つデモコーラスをやるのは苦痛でした。

内務人民委員部(内務省)管轄の収容所は、日本人を働かせて国家の生産計画を達成する

のが任務でしたから、元々効率重視で自分達の仕事を減らして日本人にやらせようとして

いました。ソ連の兵隊が銃剣を所持して警戒兵として付き添って居た日常の作業を、昭和

23年5月頃から日本人にやらせるようになりました。その職種をワイエンナカンボーイ

BKと言いました。日本人が日本人を逃げないように見張ったのです。此のような仕事を

した人が、日本人仲間から良く思われる筈はありません。ソ連も気配りして、彼方此方と

転属させて、全く見知らぬ者ばかり集めた集団に入れて帰国させたようです。

BKをやった人、密告者、吊し上げた者、吊し上げられた人等々は、スパイ契約やそれに

近い契約や取引をして帰国した特別な人々と同様にシベリヤの事を語ろうとはしていませ

ん。今後もそうでしょう。

抑留経験者でシベリヤの民主運動を肯定しているか、例えば最近の例では「内部から起こ

ったイデオロギー闘争によって、将兵一体となった反軍・民主化運動の形態が、戦犯、反

動分子はもちろん、将校たちをも排除へと進み、さらに労働者・農民と言う基本的な階級

と良心的なインテリゲンチャを主体とする運動へと質的変換を遂げてゆく」と菊地寛賞を

貰った捕虜体験記に書かれて居るように、色々と言い方を変えて肯定しようとしているの

や、戦前の転向者の再転向と、その連中にすり寄っている者の言動を見聞きする度に、反

吐を吐きたくなるような気持ちになります。内地に居た人々がアメリカに迎合して、手の

平を反すような言動に切り換えた例は数えきれません。特に、インテリ臭い者程そうだっ

たのではありませんか。歴史や事実には関係なく、自分が共にやって来た事でも目を瞑り

、アメリカ占領軍の好きな方向を是として諂い、生活の資や繁栄を手に入れた事を当然だ

として、今だに真実に目を覆っているのと同じ姿でした。

シベリヤでの日本人も同質の事をしていました。ソ連に諂い、ただ生き延びたのです。内

地に帰って知った事ですが、日本内地でもソ連に同調し協力していた共産党、社会党、朝

日新聞、テレビ朝日、東京大学の連中の言動では、憤慨に耐えない事が多すぎました。社

会主義やその先頭のソ連をユートピアだと思わせるような宣伝を如何に熱心にやって来た

かは周知でしょう。吊し上げの体験から言うなれば、アメリカのことを批判しても、ソ連

のことには沈黙している連中は、その仲間親ソ派共産主義者なのです。嘘つきを嘘つきだ

と言わないのは、嘘つきの嘘を肯定しているのと同じなのです。

ドイツ占領下の各国民に非難される行動があり、それを取り上げた映画がありました。

 

それは他国の事として片付けていましたが、日本人とて矢張り同じ人間ですから、同様の

事があっても不思議ではありません。日本人だけは特別でそんな事はありえないと思いた

い、そう言う事にして置こう、そんな心理がシベリヤ抑留について、何でもかんでもソ連

の悪さや環境の厳しさだけしか語らず、自分達がどうだったかには触れない事になるので

しょう。私は抑留の2年目から3年目以降にこそ問題があったと考えます。

どんな情況下でも無節操、無定見、根なし草、その場限りで、長いものに巻かれながら、

内地でも外地でも、仲間を売ってでもうまく立ち回って、繁栄を手に入れたのが日本人だ

った事。それが本質だったと自覚させられたのが戦後の半世紀でした。

選ばれたエリートで幼年学校、予科士官学校、士官学校本科、任官、少尉で小隊長になる

迄全部国家のお世話で育った方が、アクチブとして日本のあり方を批判し、赤旗を振った

例はあまりにも有名です。そんなにまでしても帰りたかったのでした。尤もソ連の意向を

受け入れないので死に至らしめられた少尉さんもありました。

 

ソ連は私達抑留者に、沢山の嘘をつきました。ダモイと騙して抑留しました。船が来ない

ので帰せないも嘘でした。日本の内地で革命が始まろうとしている危機状態だと、絶えず

宣伝していました。移送先、転送先は何時でもダモイでした。視察に来た日本の議員達も

嘘を報告していました。私はナホト力へ到着しても、船に乗ってからも、ソ連領海から公

海にはいっても、舞鶴に上陸した直後まで、何時連れ戻されるか不安でした。何も信用出

来ない人間にされていました。そんな人間に換えられて帰国復員したのでした。

 

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