(5)帰国後の慰霊活動、墓参、遺骨収集。

生き残って、敗戦国とも思えない繁栄の恩恵に浴して居て、常に念頭から離れない事は、

今日の我々が此の有様で居られるのは、礎となり犠牲となった戦友の方々あってこその現

在だと言うことです。

生存帰還者は様々なグループを結成して、どの団体も主として次の様な目的で定期的に、

会合や行事を行って来ました。

    1.死没者、消息不明者の究明

    2.遺骨収集と墓参 

    3.慰霊・鎮魂・顕彰

    4.体験の記録保存

    5.会員、遺族相互の親睦融和

主な団体を紹介しますと 朔北会、シベリヤ雪の同窓会、ヤゴダ会、ソ連における日本人

捕虜の生活体験を記録する会、緑園会、聯段思い出会、元新京飛行機戦友会、錦信会、元

山会、新潟松輪会、七四八一会、三九六三戦友会、ブラゴエ会、キルガ会、秋乙会、飛三

きさらぎ会、五副瑪会、カクンヤン会、石頭会、チチハル幹候三期会、全国七○○○会、

森山隊戦友会、歩七五会、四二五戦友会、全国虎頭会、ハイラル・シベリヤ戦友会、外蒙

太郎会、歩兵第八九聯隊戦没者合同慰霊碑北海道奉賛会、旧満州第二六三九部隊警備中隊

、陣友会、陣志会、○九戦友早瀬会、勲十会、全国愛琿会、異国の丘友の会、樺太兵団獣

医部戦友会、電四会、煉友会、京野会、船引シベリヤ会、占守島輜重隊の集い、満州第一

二一五部隊戦友会、北斗会、アルシャン会、シベリヤ、タイセット会、河南台の集い、捜

索第一〇七連隊、二一七会、シベリヤを語る会、ジャムス会、木次シベリヤ会、四〇一九

会、磐城会、栃木宇都宮支部三六部隊歩兵第二四一聯隊一九会、満州第二〇九部隊戦友会

スミレ会、元満州第一〇八師団歩兵第二四一連隊第三大隊戦友会、元満州国境守備隊独立

混成第一三五旅団六一二部隊滋賀県人会、満州第四○一一部隊戦友会、松風第一二三師団

工兵隊尊互会、独立混成第三旅団通信隊、関東軍経理部教育隊第七期の集い、関東憲兵隊

教育隊第十三期同期生会等が上げられますが、現在は財団法人全国強制抑留者協会が中心

での全国的な活動が行われています。政治家を動かし戦後強制抑留者の処遇改善に関する

議員連盟(240名)を結成させています。

 

スターリンの時代からフルシチョフ時代まではソ連大使館へ何度陳情に行っても、相手に

されなかったし、厚生省を通して願い出ましたが同様でした、それがゴルバチョフの時か

ら道が開けました。エリツィンは日本の国会で頭を下げました。平成三年から遺骨収集や

墓参が始まりました。遺骨収集は現在では厚生省が組織的に熱心に国家の仕事として取り

組み進めています。私も2箇所の作業に参加しました。財団法人全国強制抑留者協会(全

抑協)も墓参と埋葬地の調査団を毎年派遣しています。私も参加して二度調査に行きまし

た。今年も9月に同期生達が出かけて10箇所ばかり調査します。

 

問題は国家がいくら無神、唯物、無宗教でも、6万人もの死者が発生し、夫々に現地では

埋葬されましたが、国家として維持保存を考えず、何も管理せず放置していたので、荒れ

放題で、墓地かどうかを認識するのが困難な状態の所が殆どと言える情況になっていた事

実であります。急がねばなりません。現地を知っている抑留経験者が生きている間にやら

なければなりません。とても文明国のする事ではありません。でも現実なのです。

 

遺骨を掘る事は墓を暴くのですからソ連でも法律では禁止されています。遺骨を勝手に掘

って持ちかえる事は許されません。国と国との外交交渉で、合意、許可を得て日本政府の

仕事として遺骨が収集されているのです。厚生省のお役人の仕事です、私達民間人は協力

する、手伝うだけです。若干の補助はございますが、自費で参加しています。日本遺族会

から参加されている方々は費用全額を遺族会が負担されています。

 

日本政府厚生省の役人は、全員戦後の生まれです。50年前の事について、遠い昔の事で

関係ないと考えています。私達70歳程度の者が生まれる前、10年前がシベリヤ出兵、

20年前が日露戦争、30年前の日清戦争、50年前は西南戦争だったのです。彼等が無

関係と考えることを理解出来るでしょう。私達に田原坂での遺骨収集の仕事をさせられる

のと同様なのです。ですから、私達は、先に調べて、地図を作成し、現地の対応、誰と交

渉すれば良いか、案内人、宿泊場所、目印、順路等々を報告と言う形で、仕事のお膳立を

します、それから役人が現地を再確認、試掘して、期間、費用、その他の目処を立て、予

算を申請、予算が決定してから収集に着手の運びとなります。

 

私達のヤゴダ会は昭和23年に東京在住者の集まりを契機として全国的な組織を作り、一

時は約千百名の会員がいました。京都嵐山の天龍寺と、シベリヤのブカチャーチャ収容所

の墓地、チタ州の州都チタ市に夫々慰霊碑や公園を建設し、そこでの犠牲者の遺骨は、各

地の病院に転送されて其所で亡くなられた方の分をも合わせて、全部収集を終って居りま

す。私達軍官学校七期生は、シベリヤでの死者83名中の82名のブカチャーチャ関係の

遺骨収集が終り、1名のオルハに埋葬された同期生を残すだけになりました。しかし、全

体では未だ一割程度しか収集されていないのです。もう50年も経っているのです、放っ

てはおけません、急がねばならないのです。

埋葬地の有様は、50年前には恐らく簡単な木片や目印が建てられていたと思います。寒

い土地ですから燃える物は、何一つ残らず持ち去られてありません。当時は戦友の遺体は

素裸にして埋葬していましたし、即日でなく野積みで保管されてからの埋葬なので、今日

遺骨が誰のものであるか、判定出来る証拠とする様な遺品は先ず見つかりません。

50年も経っていると、樹木の根が絡んでいるいるのや、湿地、河岸で損傷のある場合も

あります。よく写真で見せられる様な観光用霊園墓地は、本物は極めて希有で日本人の関

心を得る為に、最近慌てて作ったものです。

シベリヤは寒冷地ですから、冬季は地面が凍土と化します。とても掘れません。焚火をし

て表面の土を溶かし、少しだけしか掘れません。死体を置いて雪混じりの土をぱらぱらと

被せてある。その様な埋葬が殆どでした。ブカチャーチャではそうでした。他の場所でも

日本人が埋葬した所はそうでした。冬季に体力の消耗したフラフラの人間がする事ですか

ら、それでも精一杯だったのです。平成3年、戦後最初に調査を兼ねての墓参に行った時

ブカチャーチャでは、焚火の跡を見付ければ、30センチ程の浅い所に必ず遺骨がありま

した。法律では1メートル80センチ程の深さに掘るのだそうですが、とても、そんなに

は掘られていないのが普通でした。処が病院での死没者の場合には、埋葬作業をする日本

人がいませんのでロシヤの兵隊に埋葬させたので、規定通りの深さに掘られていました。

 

収骨作業は基本的には手作業で一体、一体丁寧に掘ります。場所、穴の位置、発見された

状態の写真撮影、穴の採寸がされます。堀り上げた遺骨は、一体一体きちんと仕分けて、

火葬焼骨します。それが済んでも一体一体きちんと別々に布袋に入れて大切に扱っていま

す。用意したダンボール箱に収容し日本まで運びます。

日本へ帰還された遺骨は厚生省地下の霊安室で一時保管の後に千鳥ケ淵墓苑に納骨される

事になります。毎年五月末に、皇族、首相、厚生大臣、各政党の代表や関係団体代表等が

参列し、遺骨収集作業参加者も招かれて厳粛に納骨式が行われて納骨されるのです。

皆様も東京へ行かれましたら、靖国神社だけではなく、距離はあまり遠くありませんから

千鳥ケ淵墓苑にもお参りして上げて下さい。

平成3年以来、墓参の時、遺骨収集をした時も、墓前、霊前での読経、弔辞を捧げている

時には、必ず、紺青の空で何処にも一片の雲も見えなかったのに、一天にわかにかき曇る

と、雨が降りました。翌年からは現地人が「日本人が来たから雨が降るぞ」と言うように

なりました。英霊が雨を降らせて気持ちを顕してくれたのだと感激しました。準備段階で

雨傘の用意を不思議に思った方は何人もありましたが、現地へ墓参されてから納得して頂

きました。本当の事なのです。

 

この辺で私の話を終ります。長時間ご静聴有難うございました。       以上

 

    杉村俊一のプロフィール

私は61期生、満州国陸軍軍官学校七期生、ヤゴダ会員と紹介されました。偕行会の諸先

輩でも、55期以前の方の中には、何故私満州国陸軍軍官学校で偕行会に来るのか、何故

シベリヤヘ抑留されたのか、お判りにならなくても不思議ではないので説明しましょう。

昭和19年5月、京都府立京都第二中学校の第四学年になったばかりに、陸士61期、海兵76

期を受験しました。書類選考と学科試験に合格した者は7月に各師団や聯隊の将校に引率

されて、私の場合は京都府下の合格者全員の中に入って、京都師団の方に引率されて朝霞

の予科士官学校へ連れて行かれて、そこで約一週間寝泊りして身体検査と航空適性検査と

個別面接をうけました。そして、再び引率されて帰宅しましたが、学徒動員先の川西航空

機製作所宝塚工場へすぐ帰りました。11月3日に採用通知が来ることになっていたのです

が、私にはまいりませんでした。駄目だと落胆していたら、2−3日後に陸軍省軍務局か

ら手紙が参りました。それには、満州国陸軍軍官学校七期生にならないかとありました。

同じ中学の先輩に何人か例がありましたのと、予科は満州で教育を受け、本科は兵科に応

じて陸士本科、航空士官学校、陸経本科で教育を受ける。61期生であり、軍官7期生、任

官すれば日本陸軍の少尉であり、満州国軍の少尉である。国籍は大日本帝国臣民であり、

満州帝国民だと説明があった事からそれで、結果としてその七期生375名の中に応募し

採用されたのでした。

満州国は満州事変のあと、関東軍の武力を背景に、昭和七年に建国されましたが、軍閥の

兵隊を寄せ集めただけの軍隊を国軍として、近代的な組織にする為に、関東軍司令官は目

的方針を(1)安定させる (2)匪賊討伐が出来る軍隊にする (3)名実共に備わった軍隊にする

と定めて、素質の向上の為に国軍に日本人を参加させることにした。日本陸軍の優秀な予

備役軍人を満州国軍の日系軍官として採用する事が、新政府で決められました。

募集と選考は、関東軍の依頼をうけた陸軍省が行うことになりました。昭和10年陸軍大臣

林銑十郎は上奏文に「顧問として現役将校六十名を、また応聘の形で、軍事教官として予

備役将校七十数名、別に帝国在郷将兵を軍官として編成の中に入れ、能力向上に努めつつ

あり」と言上しました。昭和14年に満州国にも日本の陸軍士官学校に相当する陸軍軍官学

校の設置が決まり、満州全土から若者を募集し第一期生が入校しましたが、日系軍官第一

期生は翌年の陸軍予科士官学校五十六期生受験者の合格者で、陸軍省が適確者を選考し推

薦した者の中から、応募した者を採用、本科では日本の現役将校になる士官候補生と、全

く同一の教育を受けさせる為云々と記録にあり、56期生と同期の一期生から存在します。

第七期生は、最初に申し上げました如く、61期生と同期として扱われています。敗戦時に

は、在校中でしたが、学校を上げて出陣、敗戦でソ連に抑留される羽目になりました。

因みに所在地は新京(長春)、校長は陸軍中将山田鉄次郎閣下(20期)で北支派遣軍司令

官、広島幼年学校長等を歴任された方でした。

私達は昭和20年9月と12月に分けてシベリヤヘ出発しました。最初に健康な者232名がブ

カチャーチャヘ、次いで81名がイルクーツクヘ抑留されました。(316名)ブカチャー

チャで82名(35.3%)、イルクーツクで1名(1.2%)計83名(26.26%)がジベリヤ抑

留中に死没しました。ブカチャーチャ抑留中に飢えていた我々が道端の灌木の赤い実をも

ぎ取って食べました。私達の口の周りは真っ赤になっていました。その小さな樹の実をヤ

ゴダと言いました。生存帰還した抑留者戦友会をヤゴダ会と呼ぶようになったのです。

 

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