東京ヤゴダ会 | シベリヤ抑留概要 | 死亡者数関係 | 遺骨収集 | 地理的情報 |
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昭和二十年七月、対戦国の呼掛けのポツダム宣言が出されて、大東亜戦争を戦っていた日本は、此れに呼応して八月その条件を受諾して、戦闘行為を停止した。その決断迄の期間中にアメリカは二度、原爆を投下して降伏を促した。二度目の原爆投下の日、終戦間近と考えた交戦国ではないソ連が中立条約期間中であるのに、日本に奇襲戦争を仕掛け交戦国の仲間入りをした。已む無く日本は宣言を受諾し降伏した。宣言の九条には、日本軍の将兵は速やかに家郷へ帰らせると明記されていた。ソ連はこの条項を無視して、在満州、朝鮮北部、千島、樺太方面の日本兵をシベリヤへ拉致抑留して、二年から十年に及ぶ強制労働をさせた。その為の計画は何ヶ月も前に出来上がっていて、その対象となったのは、軍人、軍属やそれ以外の一般人をも含めて、六十万人、百万人とも言われており、その結果沢山の犠牲者(死者)が発生した。その人数の詳細は明確に発表されてはいない。 ソ連は平成三年四月、ゴルバチョフ書記長が国賓として来日した時に抑留中の死亡者名簿を持参して、慰霊墓参が解禁されるまでは、誰一人としてこの件での入国は許されなかった。 シベリヤから帰還した抑留経験者は、帰国後、就職、就学他全般的に差別されたり、殊更に不利に扱われて苦難の生活を強いられた者が多い。約二十年間、ロシヤ民謡等で、一部でチヤホヤされるブームもあった。昔からの日本に潜在した社会主義への憧れを抱く人達が、ソ連や北朝鮮をユートピアの如く宣伝していた頃には、ソ連を褒める引揚者は歓迎された。そうでない人達からは一般的に社会主義的な言動は敬遠や疎外された。然し、日本人で社会主義国家での生活経験をした者は貴重であり、東欧での実情等も勘案して、安易に自由を喪失してはならない。抑留中の犠牲者についての諸活動は、ゴルバチョフ来日以後に開始された。墓参・調査・遺骨収集に政府でも漸く腰をあげた。ソ連への往来が始まると、その過程で偉大と称していたソ連社会主義国家の崩壊をも見聞する機会が得られた。シベリヤ抑留経験者の経験は無視できない
シベリヤのチタ州ブカチャーチャから生き永らえて早く帰国した抑留者で、長老や衛生兵の人達が昭和23年に東京で集まって親睦会が作られ、それ以降の親睦・助け合いや未帰還者の帰国促進を始め、31年からは慰霊鎮魂活動として、慰霊碑建立、墓参、遺骨収集を開始して、今日まで抑留経験者、肉親遺家族、親戚、戦友、学友、友人、関係知己、趣旨賛同者等で継続されてきた。
ヤゴダ( ЯГОДА ) = シベリヤの山野に野生する潅木の実の総称
ブカチャーチャ収容所では麗葉(宮下清四郎氏)主催で俳句を嗜む集団があり、会の名称となっていた。後、戦友会の名称に転用されることになった。
継承―シベリヤ抑留の事実を日本人として後世へ継承する。
慰霊・鎮魂―犠牲者を慰霊し鎮魂する。慰霊碑維持親睦―継承する仲間同士の親睦行動を以て会の永続を図る。
一言で言えば「慰霊・鎮魂・親睦・継承」と言ってきました。
各地の部隊が混合で出来た収容所で苦労を共にした縁者の集まりで始められた。軍隊組織を中心とする集会ではなく、最初から軍人ではあったが抑留同窓会的な団体として継続されてきた。
下記は、ホームページを立ち上げるに当っての主宰者(抑留経験者)の気持です。
「ヤゴダの祈り」への遠い道
シベリヤ抑留と云う苦しみを振り返って見よう。普通、人は苦しみを表すのに「苦」と云う文字に続けて、心、 慮、悶、悩、労、行、役、痛、辛等を付けて用いる事が少くない。何れも心の有りよう、体の使い方、身体を襲 う感覚を意味するので、苦しみそのものがどういう事であるかを知らせてくれている。また「苦」を後に付けて 用いる例、貧、困、病、離等によって苦しみをもたらす因果関係が示されている。言葉を想い起すだけでも苦し みが、一様ではない事が解る。 シベリヤでの苦しみを、具体的に考えよう、敗戦で武器弾薬は没収され、故郷へ帰り家族肉親達との団欒への期侍 や願望は絶たれた、何もかも奪われ身一つだけになり、知らぬ異国の辺鄙な片田舎へ連れて来られた、劣悪な生活 環境下健康を害しても、拉致抑留の身、銃と剣とで追い立てられながら、経験した事のない労働を強制される、 馴れない仕事をいやいややっていると、六十年ぶりの寒波がやって来た。 一寸油断をすると凍傷に罹る。下痢をするが薬が無いから治らない。痩せてくる、衰弱する。その所へ伝染病が 蔓延する。始終空腹を抱えているのだから気力も無い。毎日何十人もの死者が出た。 誰もが死にたくないから、生き残ろうと我れがちに行動し始めた。長年、一緒に行動し共に助け合って釆た戦友 同志でも盗り合い、奪い合う事さえ起りだした。上下関係等の人間の仕来たりが続いていたので気配りの煩わし さが加わる。寒気厳しい環境に適応する為には、決して手抜きの出来ない不断の緊張が強いられる。 命令するのはソ連人、異民族、言葉もろくに通じない、何を言われても解らない、自分の意志を伝える事も出来 ない。もどかしい。どれもこれもやり切れない。我慢のならない事ばかりだ。と云う苦しみであった。 そして、犠牲者の大半は此の時期に亡くなられたのである。 昭和二十二年春頃迄に当る、此の期問を第一期、自然陶汰期と呼ぶことにしよう。その後の一年間、昭和二十三年初め頃までが第二期で、混乱下剋上時代と表現したい。 第一期を乗り越えて生き残り得た者、未だ病んでいる者達、幸い健康を恢復した者達とが居た。ソ連側は愈々 捕虜の効果的な活用を企図して活動し始めた。国際規約で働かせられない将校の存在は不要になった。 兵士達に秩序破壊をけしかけ、仲問同志で反目させる。上官への反抗は天皇制の否定に繋がる。反軍闘争は即階 級闘争なのだと煽動する。日常の生活秩序の中心であった軍隊組織・大隊本部とは別に、政治部将校の命令で設 けた友の会本部を政治活動の中心に据えた。同一収容所内に二つの権力が作られた。 階級章撤廃に始まる吊し上げも始めさせた。秩序は故意に混乱させられ、日本新聞を使っての思想教育も始まり、 適当なターゲットを見付けては仲問同志で吊し上げをやらせて、異常な雰囲気、緊張状況が作られた。 将校帰還も追放的にと感情昂揚の為に利用された。幾ら胡麻化しても、よく働く者より、ソ連の為にならないと 明らかな者から帰国させ始める。帰国の人選に洩れた時、その絶望と羨望、寂しさと悲痛は何とも言いようもない。 最適な労働力として更に働かせるべく、捕虜にも労働成果に応じてルーブルを配るようにした。 懸命に働く事、労働はその時だけは苦悩を忘れさせてくれる。只管パンやルーブルを追い求める事で気を紛らわせ られるが、結果的にはソ連側に胡麻をすっていた事になる。中途半端な自己欺瞞の期間だった。 医療の環境は対象者の減少に反比例して向上はしていた。けれども、病める生存者の中からも着実に戦友達は此の世 を去って行った。
第三期は、身体的な病弱者は陶汰されて了って、健全な者のみが残って居り、しかも誰も懸命に働く、労働の中 に埋没して居るのを的にして、革命思想を植え付けて、日本への革命の輸出を実現させようとした、洗脳の時期。 特に選別した者を集中的に教育する。その者達を各地の収容所に派遣して、革命の練習、体験学習をさせる。 大隊本部は勿論、友の会本部も打倒すべき破壌対象であった。夫々を心の擦り所として来た者達をも併せ含めて 否定し尽くす。ケチや因縁をつけ、何が何でも破壊してしまう。目的の為には手段は選ばない。遊びではない 革命なのだと。収容所内に、再び別の組織、反ファシスト委員会政権が作り出されて、建設と呼ぶプロレタリ アート独裁の練習が開始された。、毎日毎日教育習会が練り返される、スターリンヘの感謝文に署名を要求する。 相互に監視させ些細な言動でも密告、摘発させ、反動者として弾劾・吊し上げた。 長い者に巻かれる風潮が大勢を占めた。終には、ソ連兵のやっていた仕事、警戒兵の捕虜の労働監視をやめ、 捕虜の中から人を選び、警戒兵の代りをやらせる迄になった。捕虜を捕虜に見張らせたのだ。
シベリヤから生還した者は、自らが味わった苦しみについての表現が夫々経験した時期によって違う。第一期で の死者が多いので、殊更に強調される場合が多いようだ。経験しなかった人にも理解し易いだろう。第二期、第 三期になると複雑だ。表現が聞く者に合わせて行われる要素が入って来る。それだけ理解を得るのが難しいのだ。 だが苦しみは強かった。自己嫌悪の苦しみとも言えた、だから一切何も喋らない者も少くはない。忘れたのでは ない。語る事ができなかったのだ。
もう一つ、最も大きな苦しみを味はれた方々がいらっしゃる。御遺族である。 最愛の夫を、父を、兄を、弟を失はれた方々である。信じられない絶望の中から立上がられる迄にば、生きて帰 った者には解らない苦しみがあったであろう。長い長い時効期問、四十年余が過ぎた。時の経過は世界の情勢を・ 変化させ、人々の心も変えた。 が再び苦しみの時代を想起させる死者の御遺族や仲間達がいた。昭和四四年、天龍寺に慰霊碑を建て、二十年間 も祈り続けて未た者達である。ヤゴダの名の下に集いの灯を消さなかった者達である。 自分達が昧わった苦しみは癒える事なく秘めて来たが、自分の苦しみにのみ眼を向けて来た過去の自分は、 同じ苦しみを味わされながら斃れて去った戦友の苦しみと無念を憶い、慰霊鎮魂の祈りの中にこそ、自分の苦し みにも治癒への道があるのを見出したのである。これこそが、「ヤゴダの祈り」なのだ。「それでは、何が何でも シベリヤヘ行こう。祈りの為の行動は開始された、調査、墓碑建立、墓参、遺骨の故郷への帰還へと祈りの道は 続いている。祈りの道は永く語り継がれねばならない。書き誌されなければならない。 ヤゴダの道、ヤゴダの祈りは鎮魂の祈りなのである。含掌
昭和20年9月12日 | ブカチャーチャへ抑留に行く |
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昭和23年 | ブカチャーチャ戦友会 会合開催 |
昭和24年 | ブカチャーチャ戦友会 会合開催 |
昭和26年 | カチャーチャ戦友会 会合開催 |
昭和31年 | ヤゴダ会発足 会長:小田切利馬 目的を慰霊・鎮魂・親睦・遺族援護と決定 |
昭和43年 | 厚生省復員局廃止に伴い書類倉庫にてブカチャーチャ地区における戦没者名簿を 作成筆写 |
昭和44年10月11日 | 天龍寺でヤゴダ会総会(会長:小田切利馬) 全戦没者名の霊位を褐げ合同葬儀(委員長:守谷勝吉)を挙行 |
昭和45年 | 全国総会を行なわず、各地で其々に実施 |
昭和46年10月9日 | 慰霊碑建立開眼法要を実施 |
昭和49年 | 過ぎ去りし青春 追憶ブカチャーチャ(杉村 俊一 著) 刊行 |
昭和50年 | 過ぎ去りし青春 追憶ブカチャーチャ 第二部(井上 香織・杉村 俊一 共著) 刊行 |
昭和53年 | 過ぎ去りし青春 追憶ブカチャーチャ 第三部(守谷 勝吉 著) 刊行 |
昭和57年 | やごだの祈り(梶谷 健二・旭 陽一 共著) 刊行 |
昭和60年 | 会員名簿約(1,000名)(旭 陽一 作) |
昭和63年 | 名簿 改訂版(旭 陽一 作) |
平成3年6月9日 | ヤゴダ会調査団 ロシアへ行く(平成03年 一次) |
平成3年8月27日 | ヤゴダ会調査団 ロシアへ行く(平成03年 二次) |
平成4年 | はろばろ千里 シベリヤ鎮魂の記 刊行 |
平成4年6月10日 | ヤゴダ会調査団 ロシアへ行く |
平成6年6月8日 | ヤゴダ会第二回墓参団 ロシアへ行く 帰国後祈念碑建立委員会、発足 |
平成7年7月21日 | チタ平和祈念慰霊碑 工事中間検査 |
平成8年8月30日 | チタ平和祈念慰霊碑 竣工式典・祝賀会 |
平成8年9月 | 記念碑建立委員会を東京ヤゴダ会と改称 |
平成9年7月14日 | 全抑協調査団、ロシアへ行く(墓参団報告) |
平成13年9月7日 | 全抑協慰霊墓参団ヤゴダ班、ロシアへ行く(墓参団報告) |
平成16年 | 墓参団 ロシアへ行く、報告 |
平成18年 | 沿海、ハバロフスク地方調査 |
平成18年 | ビロビジャン慰霊訪問団報告 |
平成19年 | イルクーツク墓参団報告 |
平成20年 | 沿海、墓地調査 |
平成21年 | チタ、墓参団報告 |
創始期 |
会長 小田切 利馬 事務局 三村 金龍 役員 鈴木 信一他 |
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初期 |
会長 片倉 修、生駒 啓三、川上 欽司 事務局 鈴木、大野、旭、池上、後藤 役員 猪俣 |
東京ヤゴダ |
会長 三枝、鈴木、藤井 事務局 杉村 役員 茨木、大井、藤巻、松岡、今井 岡田、諏訪、新井、等々力、玉井 長峯、瀧澤 |
東京ヤゴダ会(現在) |
会長 茨木 治人 副会長 大井 淳 事務局 杉村 俊一 会計 広島 昭三 役員 藤巻 善雄、今井 保、岡田 信雄、諏訪 仙二 村山 かおり 顧問 瀧澤 一郎 |